前説
今回は杉並区と三鷹市を中心とした現在の人見街道並びにそのルーツである久我山街道及び旧来の人見街道を紹介する。
これだけでは何のこっちゃだと思うので本編に入る前にキーワードを整理しておきたい。なお、古道筋については文献によって記述に差異があり、以下の内容はそれらを混合したものであることを了承いただきたい。
今回、以下の4つを重要なキーワードとし、続けてキーワードの解説を行う。なお、解説における【古】【現】として、【古】は近世から都道通称道路名制定前(遅くとも昭和50年代後半)までを、【現】は都道通称道路名制定後から現在までについて記述していることを示している。
【キーワード】
- 人見街道
- 下本宿通り
- 久我山街道
- 連雀通り
【キーワード解説】
- 人見街道【古】【現】
【現】転じて杉並区浜田山3と府中市若松町4を結ぶ都道((主)14、(都)110)の通称道路名(昭和59年より)。
- 下本宿通り【現】
- 久我山街道【古】
- 連雀通り【古】【現】
【現】転じて三鷹市牟礼6と国分寺市東恋ヶ窪4を結ぶ都道((都)134)の道路通称名(昭和59年より)。
これらを地図に書き込んだのが、以下の図となる。
キーワードの整理をしなければならなくなるほど話をややこしくしているのは、言うまでも無く道路通称名の存在である。
恐らく当時の都庁は行政の面から淡々と「都道」に道路通称名を設定しただけであって、歴史的な部分はあまり深く検討しなかったのではないかと思う。
ただ、久我山街道が三鷹以西でどのような経路を経て府中に至るのかという疑問が残る。
この道については今年の1月にも現地調査しているのだが、日中だったため歩車の往来激しく、撮影した画像への写り込みが多くなってしまったため、今回早朝に撮り直すことにした。経路は永福図書館入口〜浜田山駅入口〜三鷹一小前〜芦花公園駅北とした。
なお、人見街道について、本稿では今日の都道として表記する場合は「人見街道」、古道として表記する場合は「古人見街道」と表記していく。
本編
調査日:2017.7.9
04:53
現在地:東京都杉並区大宮二丁目
現在地は永福図書館入口交差点。方南通りと大宮八幡宮南参道入口に挟まれた小道が久我山街道である。
明治迅速測図にも描かれている由緒ある道で、昭和40年代に西永福に通じる方南通りが拡張整備されるまでは、メインストリートの地位にあったと思われる。
ここから浜田山駅入口交差点までの区間が昭和57年4月に特別区道第2463号に認定されている。
道路台帳によるとこの地点の幅員は5.3mあるのだが、ガードレールやらポールやらがあるために車道は2m強程度しかない。
このガードレールも設置が中途半端ゆえ逆に危険度が増しているように思う。
変則的な四叉路。久我山街道は左折する。
道は左折後100mほど進んだところにある大宮児童館前交差点から2車線道路となり、そのまま浜田山駅入口交差点に至る。
浜田山駅入口交差点にある歩道橋から高井戸方を眺める。
斜めに横切るのが井の頭通りで正面の道が久我山街道の続きである。当地より西側において都道14号新宿国立線の一部を構成すると共に人見街道の道路通称名が付く。
西へ進むこと1km。環八旧道(昭和58年より特別区道第2461号)と環八(都道311号)を相次いで越える。
環八から西の区間はギリギリ2車線又は1車線の狭い道がしばらく続く。
こちらは1月に撮影した画像。富士見ヶ丘駅前通りを越える手前にあった世にも珍しい廃バス停である。
というのは冗談で何らかの事故に遭ってしまったのだろう。今回通ったときには新品に交換されていた。
ちなみにここを通る路線は永福町と久我山駅を結ぶ京王バスの鷹64系統で久我山駅と三鷹駅南口間(同じく鷹64系統)で運用する車両の送り込み用路線なのか久我山駅行が早朝のみ設定されている。ただし、同じ系統であるにも関わらず久我山駅到着時に行先変更がされた後は、別の車として扱われるらしく、乗継割引の設定もないため、乗り通す場合は206円×2の412円が必要となる。永福町から三鷹まで206円で行けるのであれば、十分利用価値があると思うのだが……
人見街道[ひとみかいどう]
この前の道は、人見街道です。浜田山駅北側の、井の頭通りの分岐を起点に高井戸東・高井戸西・久我山を通って府中若松町の新小金井街道に接する約十二キロの都道です。うち区内延長は約三・三キロです。路線名は府中の人見村にちなむもので、昭和五十九年四月に正式な通称名となりました。その際旧来の人見街道(上高井戸の甲州街道から分かれ区南西部の区境辺を走っていた)の道筋変更がはかられ、区内を含む上[かみ]の部分が新しく人見街道に組み込まれたのです。これが久我山街道と呼ばれていた道です。
この道は、区内の古道の一つで、武蔵国府府中(今の府中市)から大宮(今の埼玉県)に行く大宮街道、下総の国府(今の市川市)へ通ずる下総街道の道筋であったと言われ、近世以前は東西を結ぶ重要な道路であったと考えられています。江戸時代に入って甲州街道ができると、脇街道的な性格を強め府中道などと呼ばれました。近くの久我山五の九の辻にある石塔には「これよりみぎいのかしらみち」とあり、井の頭への道として利用されていたこともわかります。
その後、昭和初年に久我山駅周辺の直線化や拡幅などの改修が行われ今日に至っています。道筋には、都の天然記念物横倉邸のケヤキ並木を始め、古刹松林寺、大熊稲荷神社、二基の庚申塔などの文化財が点在し、その歴史を証言しています。
平成六年三月
杉並区教育委員会
05:23
現在地:東京都杉並区久我山五丁目
先ほどの説明板にあった「久我山五の九の辻」というのがこの交差点で、その一角に杉並区最古の道標付庚申塔がある。併せて杉並区教育委員会が設置した案内板がある。
なお、上の説明板に登場した「右の井の頭道」について、近くに貼ってあるまた別のプレート(防災避難路プレート)には「うえみち」という名称と「馬車みちより高い台地上を通る道」という説明が書かれていた。今日ではこの道1本で井の頭まで行くことはできなくなっている。
享保七年銘 道標付庚申塔
この庚申塔は、道標付庚申塔として、区内で最も古く、享保七年(一七二二)に造立されたものです。
庚申信仰は、「長生きするためには、庚申の夜は身を慎[つつ]しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。
江戸時代には、ここに見られるような青面金剛を本尊として邪鬼を踏まえ、不見[みざる]・不聞[きかざる]・不言[いわざる]の三猿、二鶏等が彫られるようになり、石塔を造立し、悪疫退散、村内安全等の祈願を行うことが盛んになりました。
この庚申塔は、道標として側面に、「これよりみぎいのかしらミち」・「これよりひだりふちうミち」と刻まれ、かつては、井の頭弁財天信仰者の道しるべとなっていたように思われます。
また、この庚申塔は、当初からこの分岐に造立され、願主名も列記されており、近世における久我山の歴史や交通路を知るうえで、一つの重要な資料といえます。
以上のことから、この庚申塔は、杉並区有形文化財として登録されました。
今後とも、このような文化財を一層大切に守りつづけたいものです。
昭和六十一年一月
杉並区教育委員会
150m程進むと似たような交差点が現れるが、こちらが久我山街道の新旧道分岐点。
昭和8年頃に井の頭線開通に合わせて行われた線形改良は大きく分けて3ヶ所で行われ、ここが1件目となる。
付近にある防災避難路プレートによると旧道は「馬車みち 明治の頃、井の頭行の馬車が通った道」とのこと。
ちなみに人見街道については「人見街道 久我山街道と呼ばれていたが、昭和59年に東京都が決めた府中市人見に至る道」と書かれている。
昭和36年より特別区道第1896号となっている旧道は、ギリギリ2車線幅があるものの見通しは悪い。また、久我山駅周辺では特殊舗装がされており、旧道らしい雰囲気は薄くなっている。
ところで画像中央に見え隠れしている「飛び出し坊や」もとい「とび太くん」。体の向きからしてこれから飛び出すのではなく無事に渡り終えてるのではないか。むしろ、壁をすり抜けるバグ技を試そうとしている人みたいになっている。
前言撤回。
彼は両腕の骨を折る大怪我をしてしまったらしい。
(切断してしまった腕を縫合したように見えなくもない)
皆さんも道路を横断する時は左右をよく確認しましょう。
久我山駅前後のグネリ具合は徒歩交通時代の道であることを感じさせる。
久我山1号踏切を渡る。
井の頭線開業当時はこちら側(吉祥寺方)に改札口があったが、昭和15年に渋谷方に駅舎が増築され、現在では渋谷方のみに改札口がある。
久我山稲荷交差点まで進んで来ると旧道はここを左折する。
この先、現道合流までの道は特別区道第2104-2号線(昭和40年認定)となっている。
05:42
現在地:東京都杉並区久我山三丁目
現道に合流。
旧道が750mのところ現道は650mと旧道より100m短い。
400m進んだ先にある牟礼橋については放射第5号線用の新橋が1月に完成したが、半年が経過した現在では昭和牟礼橋の撤去が終わり、新橋を架けるための地盤改良が行われていた。
牟礼橋付近では逆Z字の線形になっている旧道を現道は始点と終点を直線に近い形で結んでいる。
大正牟礼橋を渡った旧道は現道を横切りそのまま直進、突き当りを右折する。
放射第5号線に接続する三鷹3·2·2号が供用開始された暁にはこの交差点は消滅することになる。既に道路自体は奥のフェンスまで完成していることから、この風景が見られるのもあと1年程度と思われる。
また、右折した先にある交差点にも庚申供養塔が安置されている。
(こういうのを紹介していかないとストリートビューで見るのと変わらなくなってしまうのが市街地レポートにおける悩みである。)
三鷹市 庚申供養塔
旧人見街道沿いにあったこの石碑は亨保17(1732)年に建てられた道標で「右はこれより国分寺道、左は府中道」と刻まれ、「南妙法蓮華経」の題目と庚申供養を表しています。
石碑記載文
「銘前 奉建立石橋二所 武 多麻郡無礼村同
南妙法蓮華経庚申供養之所
享保一七壬子十一月吉日 眞福寺名賢
右 是より 古く帰ん寺道
左 是よ里 ふちう道」
寸法 83・34・18.5
所在地 牟礼一丁目八番
右折後、80mで現道に合流する。2ヶ所目となる旧道の距離は200m、対応する現道は150mであった。
また、三鷹市道路台帳によると右折するまでの道が市道63号で右折後の道が市道183号とのこと。後者については、「この道路は市道183号線です。」という張り紙が付近にしてあった。
なお、牟礼橋以西の人見街道(の中の人ならぬ中の道)は都道14号改め都道110号府中三鷹線となっている。
現道を500m進むと再び旧道の分岐があり、直角三角形の斜辺部が現道となる。
旧道は現在、市道778号となっている。
旧道の切り返し部にはブリンカーライトが設置されている。
旧道から延びる中本宿通り(市道149号)は人見街道と東八道路をバイパスしているため、終日に亘り車両の通行が多い。写真を撮っているときも日曜日の6時を回ったばかりにも関わらず数台の車が出入りしていた。
06:09
現在地:東京都三鷹市牟礼二丁目
現道に合流。旧道の距離は現道より10mばかし長い80mだった。
ひとつ前の旧道とは現道合流部の三角スペースに神社(先ほどが御嶽神社、今回は古峯神社という)があることも含めて瓜二つである。
以上をもって、久我山街道にある3ヶ所の旧道を走破したことになる。それぞれ短いながらも供養塔の存在や特有の線形などから歴史ある道を体感することができた。
後編では旧人見街道の道筋を辿っていく。
(後編へ)
はじめまして、失礼いたします。
返信削除貴ブログ中の文中にある説明板についてです。
「付近には杉並区教育委員会が設置した人見街道についての説明板があり、一通りの概要を知ることができる。」とお書きになっている説明板ですが、どうやら令和3年に更新されたようです内容が変わっています。なんだか、「人見街道は2種類あるよ!」的な内容に変更されているように思います。お手空きなときにでも御覧ください。
詳細は、google mapの「遊び場113番」にあります写真の中にありますので、どうぞご参照ください。
https://goo.gl/maps/KBVfBoy9bxg4dSbPA